5/3 12:30〜@六本木ヴァージンシネマ

5/3@六本木ヴァージンシネマ

あれです、今日お話したいのは、
「Vフォー・ヴェンデッダ」の件です。

ご存知でしょうか?
まずはあらすじを説明します。

舞台は近未来のイギリス。
と聞くと、「マイノリティ・リポート」よろしく、宙を駆ける自動車など
最先端技術が実現された理想社会を思い浮かべるところですが、
当作品で登場するイギリス国家は、テロや病原菌といった脅威に
対する過剰な防衛意識から、独裁制に陥ってます。

この点、多少オーバーな表現であることは否めないとはいえ、
9・11後のテロリズムに席巻された世界を如実に反映した設定ですね。

さて、その独裁体制に立ち向かう強靭な心身の持ち主が一人。
その名を「V」と言います。彼はある理由から政府に対する
強い憎しみを抱いており、従順に政府に従っている国民を煽動して
体制の転覆を謀ろうと企てるわけです。

その計画に偶然にも巻き込まれてしまうのがナタリー・ポートマン演じる
「イヴィー」という名の女性。彼女は反政府活動家の父母を政府の弾圧によって
亡くして以来、政治活動に抵抗感を示していたんだけれど、「V」との出会いが
彼女を変える。そして、「V」もまた彼女の力で変わってゆく…

ここまでが大まかなストーリーです。
以下、ネタばれ。

個人的には心に刺さった作品。

とにかく始終、登場人物たちが魅力的に描かれている。
戯画化しすぎてるって声もあるようだけれど、
善玉、悪玉を問わず強力な個性をスクリーン上に霧散させていた。

特に「V」の奇妙なキャラクター設定は素晴らしい。
マトリックス」であのエージェント・スミスを演じた
ヒューゴ・ウィーヴィングの立ち居振る舞いは仮面で
顔が隠れていても、その人のものと分かるほど特徴的。笑

この「V」なにが奇妙かって、ずいぶん博学で
正論をふりかざす革命論者なんだけど、彼のレジスタンス活動の
根幹にあるのは個人的な憎しみでしかないところ。

結局、彼が劇中で語る言葉は終盤を除いて
国家権力を牛耳る原理主義者の言と同じく空疎に聞こえる。
「V」が憎しみを正当化するにあたって無理やりに
理論武装した結果、つむいだ言葉でしかないから。

それは時折みせる残虐な殺人シーンを見ても分かる。
憎しみを秘めた「V」は、自警団に襲われるイヴィーを助けたときや、
テレビ局に潜入したときにも、目的のためなら
いとも簡単に民間人の命をも奪ってみせる。
「義憤」に駆られて革命を志す人間であれば、あんな風に
市民を襲うだろうか?

しかしながら、歪んだ動機でスタートを切った革命思想は
「イヴィー」との出会いでまさに「革命的な」変化を遂げる。
孤高の存在のはずだったVは彼女と出会って恋を知る。
しかし、旧時代の化け物である自分を恥じているがゆえに、
それが実らぬ想いであることも同時に悟ってしまう。

それゆえ彼は、ラストシーンで自身の憎しみに根ざした
復讐計画を放棄し、次代を担うイヴィーに「希望」を託す。

どこか「オペラ座の怪人」を想起させるような物語だが、
この作品のエンディングは哀しみではなく希望に満ちている。

なぜか。

生臭い感情を持つアヴェンジャーである彼が、
自分自身を旧時代の遺物だとして議事堂と共に
滅び行くことを選んだとき、すでに彼は憎しみから
解放されていたのだと思う。

そしてイヴィーは悟る。
「彼はみんなの希望」だったのだと。

Vは最期の瞬間まで仮面を取ることは無かった。
そのことが悲恋に終始するオペラ座の怪人との大きな違いかな。

「憎しみ」に縛られた怪物を描きつつも仮面で
最後まで正体(=個人であること)を覆い隠すことで、
「希望」の象徴として「V」の存在を昇華させてみせた
脚本の勝利!?いやぁ、好きだわ。こういうの。

政治色が強いと噂だったが、まさにそのとおり。
「恐怖」を喧伝することで、独裁体制を誕生させられるという指弾には、
ボーリング・フォー・コロンバインでご高説を垂れていた
マリリン・マンソンの主張と相通ずるものがある。

私たちは、テロや病原菌などありとあらゆる外的の存在に
脅えて、排除を試みる。しかしながら、その恐怖は一向に
収まることなく、むしろ国粋主義者原理主義者の手で
拡大再生産されてゆく。そして、かつては平穏に共存してきた
外国人労働者や同性愛者が、ただ「自分達と違う」というだけで
迫害される空気が生まれる。この作品でいうところの「純化」のサイクルだ。

たしかに、それはいっときの「安心」や「安全」を
産むかもしれない。
そのために多少生活の不便を強いられることにも抵抗感が
強くはないかもしれない。
しかしそれは、いつ、どこで、誰が迫害の対象となるかも
分からない世の中になるということだ。

純化」は休まることを知らない。
徹底的に害悪を排除しようと、ある時点からは、
半ばオートマチックに機能し始める。
日本の戦時中の制度である隣組とか、ナチスドイツの密告制度なんかがいい例。
作品中では自警団というかたちで一般市民が体制の維持に貢献している。

夜間に外出する者は「異質」
美術品を蒐集する者は「異質」
特定の書物を持つ者は『異質」

カメラによる監視に加えて、近隣住民たちの相互不信の中で、
迫害の対象は無限に増殖してゆく。

そんな世の中が本当に生きやすいのか?
仮に、不満を抱いているとしたらそれは誰の責任か?
政府か?教会か?教師か?警察か?
いや、違う。
お前ら自身だ

「V」はこう呼びかけた。

彼の発言に胸をつんざかれた気がしない奴らは、単に鈍感なだけなんだと思う。

「安心・安全至上主義」の先にあるのは徹底した管理社会。

僕らを縛ってるのは、僕ら自身だ。