新聞

alljapan012004-07-02

まだ小学校の頃、両親の留守中に妹と二人で忍び込んだ
書斎で、古びた新聞記事を見つけた。

そこには、幼い男の子を抱きかかえて笑顔を見せる父の姿を捉えた
写真がでかでかと掲載されていた。

その幼い男の子とは、僕ではない。
どこの誰か分からない。

日焼けのせいだろうか。
その記事の切り抜きはすっかり黄ばんでしまっていて、
文字もまた、霞み始めていた。

漢字を飛ばしながらも文字を辿っていくと、
当時まだ小学校低学年だった僕にも記事の大意はつかめた。

どうやら、誘拐事件に巻き込まれた男の子が
警察の捜査によって無事犯人の手から解放された場面を
報じる、号外記事らしい。

写真は、まさに解放直後の男の子を抱き上げる父を
撮影したものだった。

どうして、父がそんな場面に居合わせたのか、
経緯は分からなかった。

それでも、単純にそんな父の姿を誇らしく思った。

それと同時になぜだか写真の中の小さな男の子に対して
ひりひりするような嫉妬心を駆り立てられたのも覚えている。

幼い日のそんな記憶。

留守中に無断で書斎に立ち入ったという
罪悪感があって、帰宅した両親に記事のことを
尋ねてみることはしなかった。

その後もタイミングを逃し続けて10余年…

今となっては、本当にそんな記事があったのかすら
定かではないけれど、頭の中に妙にこびりついて
離れない「思い出」となっている。

僕は昔から思い込みが強いらしく、
家族皆に共通の思い出だと思って語った
出来事がまったく事実と異なっていることが多々ある。
全くわれながら困ったものだ。

自己弁護するわけじゃないけど、
そもそも、「記憶」とか「思い出」って、
事実に即したものである必要があるんでしょうか。

最近、Tim Burtonの‘Big Fish'を観たんだけど、
劇中で老齢に差し掛かった父親が、かつて息子に話して
聞かせた自身の体験譚は、たとえ過剰に脚色されたものであっても、
とても魅力的なものだった。

作中の人物は言う。
「物語の解釈の仕方は様々だ。厳密に事実に沿った物語り方も
あるけれども、僕は脚色されたversionの方が好きだ」

僕もその意見に大いに同意する。
そのversionの物語が自分の願望が反映されて、
歪められた現実だったとしても。

だから、あの古びた新聞記事の所在を確認することは、
これからもないと思う。
たとえ、その新聞記事が実在するとしても、
端的に事実を記録してみせた記事の圧倒的な「リアルさ」によって
当時の自分なりの解釈が添えられた「思い出」が
消し去られてしまうことが怖い。
だって、僕は後者のversionの物語が好きだから。