自由になりたくないか〜い?

遡ること、4日前。
4月22日に尾崎豊のトリビュートコンサートへと
足を運んだ。
会場に集う人の層を観察していると、やはり20代後半〜
30代半ばくらいまでの人が多い。
開演前の雰囲気もどことなく、湿っぽい。
13回忌だから?いやいや、別にトリビュート盤に
参加したアーティストのライブだしなぁ。
いざ、コンサートが始まっても会場のテンションは
水平線をたどる。まったく盛り上がらない。
なんだろう、これは…
などと思っているうちにコンサートは幕を下ろした。

ここで突然弁明させてもらうと、
あの、イタイとか思わないでくださいね!
ホント、一時期はまってただけなんで。

誰しも、今考えれば何が魅力的に感じられたのか、
自分でも全く理解できないような、特定のアーティストに
傾倒した経験があることだろう。

人からみたら「イタい」ヒトであった頃。
振り返ってみれば、自分を殴りたくなるような、
あるいは、胸をかきむしりたくなるような衝動に
駆られるほど「イタくて、恥ずかしい」時期。

そんな時期がないとは言わせない。
みんな、イタかったということを大前提にした上で、話す。

尾崎豊の楽曲は、フツーの少年少女を
ある日、突然嵐のように(笑)虜にして、
「イタい」時期をもたらすのだが、
その特質は、その期間がたとえ思春期のほんの一時で
あったとしても、そのメッセージがその後の人生に
決定的な影響力を行使し始める点にあると思う。

人生を変えるほどの衝撃。
それは、自分が言葉に、行動にできなかったことを、
軽薄ではあるけれども率直な表現に書き落としてみせる
尾崎豊という存在がいる(いた)ことに対する驚きだろう。

彼の作った詞に「ハマる」というよりは、
その詞が自分の鬱屈した心情をあまりに正確に言い当てている
がゆえに、それを自分が作ったもの。
少なくとも、彼と「共作」したものという錯覚を覚えてしまう。
「あいつは、俺(私)のことを歌ってるんだ」
尾崎が好きな友人たちは口を揃えてこう言う。

この言葉が、彼の詞がファンの心の奥深くに訴えかける
理由を単純にあらわしてる気がする。

尾崎に共感するのは、必然的に自分が何らかの問題を
抱えている時期なんだけど、それゆえ、たとえその問題が
解決されたとしても、「自分自身の成功物語」における
ひとつの章として尾崎の楽曲を聴き続ける傾向があるように思う。

「自分ヒストリー」における苦難の一章。
この記憶をまざまざとよみがえらせるものであるだけに、
ファンでありながらふとした瞬間、彼の曲を耳にする度に
複雑な心情になる。
なんか、懐かしさと、自己嫌悪とが入り混じったような感じ。

冒頭の話に戻ると、
トリビュートライブの会場を包んでいた雰囲気は
そんな感情の集合体が作り出した「湿っぽさ」だったように思う。
この「湿っぽさ」は単に「尾崎豊を偲ぶ気持ち」だけに
よるものではないのだ。

「昔の自分を偲ぶ」
この表現が適当なのかもしれない。

僕自身、「シェリー」を聞いて泣きそうになったのは、
もはや追憶の中にしか存在しない過去の自分の姿が
その詞の中に、確かに垣間見えたからだった。

コンサート序盤、トリビュート盤参加アーティストのライブの合間に、
尾崎のフィルムライブが挟まれたのだが、その映像の中で、「自由になりたくないか〜い?」
と問いかける彼に、応えるファンはもう、その会場の中には
いなかった。
応えたのはフィルムの中にいる、昔日のファンの声だけだった。
そこに、僕ら観客は、昔の自分を観た。感じた。

もう、バカみたいに尾崎が好きっていえない
自分が悲しいねー。

あーぁ。オトナってなんだろう。