視野狭窄

神戸の酒鬼薔薇聖斗や、佐賀県のバスジャック少年など、
凶悪な少年犯罪の続発を背景として、少年法改正論議
華やかであったころ、ひたすら「厳罰化」を訴える勢力が
力を持ちえた。
曰く、「少年犯罪の周辺に横たわる無責任の体系を排除し、
被害者感情に報いるような少年法のあり方を考えなかればならない」
のだそうな。
そうした声に対して、現行の少年法(当時)の維持を訴える
評論家たちの主張の中で、唯一僕に対して説得力を持ちえたのは
古今東西、厳罰化によって殺人などの重大犯罪を防げた例はない」
というものだった。

「人の命を奪う」という、極めて残酷かつ重大な行為に
至るには、それ相当の固い決意が必要であろう。
自分の意図する行為によって引き起こされるで
あろう最悪の事態=刑事罰 を感受するほどの「覚悟」が。
それゆえ、「厳罰化」は犯行を思いとどまらせるための
「威嚇力」を発揮し得ないというのが「厳罰化」反対論者の
主張であった。
なるほど、と首肯させられる部分がある。
が、しかし、そうした「覚悟or決意」を抱かせるほどの狂気は、
どこから生じるのだろうか。

僕は、その狂気は刑罰の「威嚇」効果にまで思いが至らない
重度の『視野狭窄状態」に起因するものだと考える。

長崎県佐世保市で、同級生の女児の首をカッターで「かき切った」
少女にしても、決して突発的に犯行に走ったわけではなく、
周到さは欠けているものの、事前に計画を練った上で凶行に
及んだことが明らかになってきている。

犯行当時の彼女には当然、人を殺すことを決意させるに足る、
鬱積した動機があったであろうし、それは決して軽率の謗りを
受けるべきものではないと思う。
たった一人で、友人の理不尽な言動を消化できずに
ただただ孤独に打ち震えながら、
小さな頭で一生懸命考え抜いた末の犯行だったのだろう。

一人一人に見える世界なんて限られている。
自分に見える光景のみから情報を引き出して、物事を
判断することの危険性を、僕ら大人は経験的に知っている。

なにか、重大な決断を迫られたときに、友人に相談したり、
ハウツー本に頼ったり、TV番組を観たりして、
できるだけ客観的な視点を得ようと努める。

そうすることで、『視野狭窄』に陥ることを避けようとする。
これは、成長の過程でほとんど無意識的に身に着けていく、
処世術のようなものだと思う。

加害児童は、たしかに「計画的に」「意図的に」「主体的に」
犯行に及んだ。
しかし、そうした決断を下したとき彼女は既に『視野狭窄
状態に堕ちていた。
限られた選択肢の中から彼女は選んだ。
最も短絡的な結論を。
その行為がもたらす意味を見落としたままに。

「ワタシが生きるにはあのコを殺すしかない」


事件後丸一日が経過して、加害児童は
「よく考えればあんなことにはならなかった」と
悔悟の念を供述しているという。

周囲の大人が彼女を抱き上げて、もっと多種多様で、
もっと健全な選択肢が見えるようにしてはあげられなかったのだろうか。

彼女が最終的に選んだ選択肢は、
事件前日の夜にTVによって提示されたものだった。