リアルということ

とある就活サイトの主催するセミナーに参加してきた。
って、そんな柄じゃないんだけど、「セミナー」というものが
どんなものかを実体験として知っておくために、興味本位で
会場まで足を運んだわけだ。

内容自体は、ベーシックなもの。グループディスカッションに
自己PR、就活のスケジュール学習といったところ。

GD=周りが喋らないので、とりあえず仕切る。まとまる。
  結論の独自性はなし。
自己PR=「胃下垂」をテーマに1分間自己PR。笑いは取れた。

各班で、それぞれが自己PRを終えた後、班の中でも優れた
自己PRが出来た人が、全体の前で再度自己PRするというかたち
だったのだが、なんとも…。
発表者の「本気度」「リアル」が伝わってこない。
マイクを通して延々と発せられる言葉が、上滑りし続ける。
なんでだろう?なんでだろう?

いよいよ本格的に就活を始動するにあたって、ネタ作りや
能力うんぬん以前に、「まともに話す」ことのできる人が
どれだけ少ないことか!センテンスとしてまとまっていても
感情がこもっていない。感情がみなぎった発表でも、文章
としてまとまっていない。

そのことに、はたと気付かされた。

さらにグループディスカッションでの役割、自己PRの完成度によって
5段階にランク付けされて、さらに詳細なセミナーを受けた。

習熟度別講義っていうんですか?こういうの感じ悪かったなぁ。
周り見渡せば、自分がドコにランク付けされたか分かっちゃうわけよ。

自分自身を相対化して見れるという効能があんのかもしれない
けど、「ゆとり教育」真っ只中の時代に育った世代としては
ちょっとばかしshockingな光景でした笑

セミナーを終えると、発作が…
映画が観たい!最近あんまり時間取れなかったからなー。

というわけで、チネチッタまで「誰も知らない」を観に行く。

なんだか混んでるなぁ、と思ってたら、今日って映画の日
なんですね。一律1000円で観れるってんだから人が多いわけだ。
おかげで席は前列端っこに追いやられてしまった。

あー、普段から映画産業に少なからず貢献してる人間に
優待券よこせっつーの。なんて要領の悪いコみたいなことを
言いながらも、大人しく入場。当たり前か。

端っこつっても、わりかし観やすいやね。劇場の席の配置が
しっかりしてるから。安心。映画に集中。

感想は?と問われれば、「リアル」だって答える。
勿論、実話に基づいたお話だからなのだが、それより
子供たちの描写のされ方、物事の受け止め方が、圧倒的な
真実味を持って胸に迫ってきた。

いや、ネタばれはさんじゃうと
妹の遺体をトランクに詰めて羽田へと運び出すシーンがあるんだけど、
その姿が、なんかすげぇ「リアル」で泣けたんだよね。
(※この描写が、事実に基づいたものであるかどうかは知りません)

米兵の遺体が納められた棺が、星条旗で覆われてる光景は
みんな記憶にあると思う。その棺が埋葬地へと運ばれてく
様子を何故か思い出した。

でも、そんな棺よりも、トランクの方が絶対リアル。
言っちゃえば、前者は日常的に繰り返されるルーチン。
その点、後者は他に類を見ない異形の事件だった。
だからこそ身近な人間の死を悼む気持ちとか、単に
それに直面して困惑する気持ちとか、人生の理不尽さ
に対して苛立つ気持ちが、はっきりと表れているのだと思う。

うまく表現できんけど、そんな感じ。

んで、「リアル」という媒介項を用いて今日の出来事を
語るなら、就活セミナーで僕が感じた違和感とは、さながら
ルーチンのように使い古されて劣化し切った言葉で自分のこと
を語ることのうそ臭さであり、「誰も知らない」を観て感じた
真実味とは、事実は小説よりも奇なり、じゃないけど、
異形のモノの中にこそ人間の本質があるんじゃないかという、
直観だ。

まだ就活とやらを体験したわけじゃないから、自己PRの場に
おいて、「リアル」さが必須であるとは断言しきれない。
だけれども、通り一遍のことを話すよりは、自分以外の人間
には語りえない、「誰も知らない」リアルな自己像を語る方が
かっこいいなって、ふと思った