穢れた舞台

金魚@六本木


六本木「通」ならずとも、一度は耳にしたことがあるだろう名店
「金魚」。所謂、ニューハーフ・ショーパブだ。今年で10周年を
迎える由緒正しき?古参ショーパブだ。
たまたま招待券をもらったという友人に連れられて怪しげな店の
戸をまたいだ僕だったが、実はニューハーフ・ショーを観覧するのは
初めてではない。9月にタイを訪れた際に、「カリプソ」という
タイでNo,1だといわれるショーパブに立ち寄った。(そのときの様子は
友人・ムトゥの日記に詳しい)

そんな経験も手伝って、ニューハーフ・ショーそのものには抵抗が
なかった。
店の内部は暗く、テーブル脇に設置されたピンク色に発行する蛍光灯が官能的な雰囲気を醸し出していた。ショーの開始時間が20分
ほど遅れるなど、劇場側のアバウトな姿勢が気になったけれど、
その間は適当にフードをつまみながら時間をやり過ごした。今思えば
店内の一種異様な空気に馴染むために必要な時間だったのかもしれない。

いざ、ショーが始まるや否や、絢爛豪華なショーに圧倒されるばかり。
POPSあり、TRANCEあり、果ては沖縄民謡までも網羅したメリハリのある
構成。単なるダンスショーに終始するのではなく、それぞれに綿密に
練られたストーリーが添えられている。沖縄民謡の下りでは、戦時下の
幼いカップルを引き裂く戦争を主題に壮大な大河物語がステージ上に
繰り広げられた。あまりの出来栄えに思わず、涙(笑)。いや、本当に。
観る人が観れば、茶番かもしれない。でも、最前席に陣取った
僕らの耳には、役者たちの衣擦れの音や息遣いがはっきりと聞き取れる。
僕らの目には、華美な衣装とは好対照を成すボロボロになった
タップシューズが映る。そんなディティールが、彼ら(彼女ら?)の
バックグラウンドを連想を連想させて止まない。
劇中の人物たちの悲哀と共に、彼らがそれぞれ背負った宿業が胸に迫ってきた。勝手に今に至る人生の軌跡を想像してしまうのね笑
この華やかな舞台に上がるまでに、どれだけの時間を自分のセクシャ
ティーを見つめることに費やしたんだろう、とか。きっと親父に
勘当されてるに違いないだろう、とか。
舞台上で展開されるストーリーとは別に、ふとした瞬間に垣間見る
ことのできる役者たちの人生の一幕が断続的に上映されている。
そんな魅力が、金魚にはあった。
(これってカリプソでは感じ取れなかったものかも。なんでだろ)

ただし、ステージを彩るのは、決して憐れみを誘う物悲しさじゃない。
計算し尽くされた演出、壮大な舞台装置、随所に効果的に使われる照明…
そして、そうした「仕掛け」と寸分違わぬタイミングで演技する、役者。
終幕を迎えたとき、会場を包み込むのは、純粋な感動。
「あいつら、かっけぇ!」
そう、かっこいいんです。「かわいい」「キレイ」といった感情は
初めのうちだけ。舞台が進行するに連れ、賞賛の対象は彼らの容姿
よりも、その内面に移る。心意気が男前なんですよね。さまざまな
困難を乗り越え(といっても、僕らが勝手に創り上げたストーリー笑)
舞台上で最高のパフォーマンスを発揮している彼らって、存在そのものが
すごくドラマチックだ。かっこいいなぁ。

余談。
なぜだか、目まぐるしく立ち代わる登場人物や、瞬時の衣装チェンジを
目の当たりにして、歌舞伎を思い出した。

歌舞伎の例を挙げれば、その創始者出雲の阿国だといわれるが、
後に女性は穢れと見なされて舞台上に上がることを禁じられた。
相撲も同じ。土俵上に太田房江が上がることは許されない。小雪
だったらいいけどね。個人的には。
話が逸れた笑 つまり、男だけで構成されてきた舞台を、他ならぬ
男自身が完全な女性を演じることで「穢し」てみせる点がカタルシス
を感じさせるのかも。(女形はちょっと違うかな。)
その点が、ニューハーフ・ショーが女性に人気を博す理由のひとつだったり?

そんなことを考えつつ家路についた。

皆さんも、一度は絶対、訪ねてみてほしい。
絶対泣くからさ。

あぁ、そういえば開場が9時半くらいだったんだけど、時間に余裕が
なかったので、金魚まで走って向かうはめになった。

最後尾を走る僕の前には、ニューハーフ・ショー目当てに
六本木を失踪する女が3人。

シュールな光景だ笑

必死やなー、おまえら。とか思いつつニヤリと笑ってしまいました。
失礼。